光母子殺害・判決要旨
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▼(3)酌量すべき事情について検討する。

(ア)被告人には前科はもとより見るべき非行歴もない。幼少期に、実父から暴力を振るわれる実母をかばおうとしたり、祖母が寝たきりになり介護が必要な状態になると排泄(はいせつ)の始末を手伝うなど、心優しい面もある。

(イ)被告人は幼少期より実父から暴力を受けたり、実父の実母に対する暴力を目の当たりにしてきたほか、中学時代に実母が自殺するなど、生育環境には同情すべきものがある。また、実父が年若い女性と再婚し、本件の約3カ月前には異母弟が生まれるなど、これら幼少期からの環境が被告人の人格形成や健全な精神の発達に影響を与えた面があることも否定できない。もっとも、経済的に問題のない家庭に育ち、高校教育も受けたのであるから、生育環境が特に劣悪であったとはいえない。

(ウ)被告人は犯行当時18歳と30日の少年であった。少年法51条は犯行時18歳未満の少年の行為については死刑を科さないものとしており、被告人が犯行時18歳になって間もない少年であったことは量刑上十分に考慮すべきである。また、被告人は高校を卒業しており、知的能力には問題がないものの、精神的成熟度は低い。

(エ)弁護人は刑法41条、少年法51条などを根拠として、少年の刑事責任を判断する際は、一般の責任能力とは別途、少年の責任能力すなわち精神的成熟度および可塑性に基づく判断が必要となる旨主張し、精神的成熟度がいまだ十分ではなく、可塑性が認められることが証拠上明らかになった場合には、死刑の選択を回避すべきであるなどと主張する。

しかし、「少年の責任能力」という一般の責任能力とは別の概念を前提とする弁護人の主張は、独自の見解に基づくものであって採用し難い。また、少年の刑事責任を判断する際に、その精神的成熟度および可塑性について十分考慮すべきではあるものの、少年法51条は死刑適用の可否につき18歳未満か以上かという形式的基準を設けるほか、精神的成熟度および可塑性といった要件を求めていないことに徴すれば、年長少年について、精神的成熟度が不十分で可塑性が認められる場合に、死刑の選択を回避すべきであるなどという弁護人の主張には賛同し難い。

たしかに、被告人の人格や精神の未熟が本件各犯行の背景にあることは否定し難い。しかし、各犯行の罪質、動機、態様にかんがみると、これらの点は量刑上考慮すべき事情ではあるものの、死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情であるとまではいえない。

(オ)被告人が上告審での公判期日指定後、遺族に対し謝罪文を送付したほか、窃盗の被害弁償金6300円を送付し、当審においても、遺族に対し被害弁償金として作業報奨金900円を送付した。平成16年2月以降は自ら希望して教戒師による教戒を受けている。また、被告人は当審公判において、これまでの反省が不十分であったことを認める供述をし、遺族の意見陳述を聞いた後、大変申し訳ない気持ちで一杯であり、生涯をかけ償いたい旨涙ながらに述べている。

(カ)第1審判決は酌量すべき事情として、被告人の犯罪的傾向が顕著であるとはいえないことを摘示している。たしかに被告人には、前科や見るベき非行歴は認められない。しかし、本件各犯行の態様、犯行後の行動などに照らすと、その犯罪的傾向には軽視できないものがある。

(キ)また、第1審判決が説示するように、被告人は公判審理を経るに従って、被告人なりの反省の情が芽生え始めていたものである。もっとも、差し戻し前控訴審までの被告人の言動、態度などをみる限り、被告人が遺族らの心情に思いを致し、本件の罪の深刻さと向き合って内省を深め得ていたと認めることは困難であり、被告人は反省の情が芽生え始めてはいたものの、その程度は不十分なものであったといわざるを得ない。

そして、被告人は上告審で公判期日が指定された後、旧供述を一変させて本件公訴事実を全面的に争うに至り、当審公判でもその旨の供述をしたところ、被告人の新供述が到底信用できないことに徴すると、被告人は死刑を免れることを企図して旧供述を翻した上、虚偽の弁解を弄しているというほかない。被告人の新供述は、第1の犯行が殺人および強姦致死ではなく傷害致死のみである旨主張して、その限度で被害者の死亡について自己の刑事責任を認めるものではあるものの、第2の殺人および第3の窃盗についてはいずれも無罪を主張するものであって、もはや被告人は自分の犯した罪の深刻さと向き合うことを放棄し、死刑を免れようと懸命になっているだけであると評するほかない。被告人は遺族に対する謝罪や反省の弁を述べるなどしてはいるものの、それは表面的なものであり、自己の刑事責任の軽減を図るための偽りの言動であるとみざるを得ない。自己の刑事責任を軽減すべく虚偽の供述を弄しながら、他方では、遺族に対する謝罪や反省を口にすること自体、遺族を愚弄(ぐろう)するものであり、その神経を逆なでするものであって、反省謝罪の態度とは程遠いというべきである。

第1審判決および差し戻し前控訴審判決はいずれも、犯行時少年であった被告人の可塑性に期待し、その改善更生を願ったものであるとみることができる。ところが、被告人はその期待を裏切り、差し戻し前控訴審判決の言い渡しから上告審での公判期日指定までの約3年9カ月間、反省を深めることなく年月を送り、その後は本件公訴事実について取り調べずみの証拠と整合するように虚偽の供述を構築し、それを法廷で述べることに精力を費やしたものである。これらの虚偽の弁解は、被告人において考え出したものとみるほかないところ、そのこと自体、被告人の反社会性が増進したことを物語っているといわざるを得ない。

現時点では、被告人は反省心を欠いているというほかない。そして、自分の犯した罪の深刻さに向き合って内省を深めることが、改善更生するための出発点となるのであるから、被告人が当審公判で虚偽の弁解を弄したことは改善更生の可能性を皆無にするものではないとしても、これを大きく減殺する事情といわなければならない。

▼(4)以上を踏まえ、死刑選択の可否について検討するに、被告人の罪責はまことに重大であって、被告人のために酌量すべき諸事情を最大限考慮しても、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも、極刑はやむを得ないというほかない。

当裁判所は上告審判決を受け、死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情の有無について慎重に審理したものの、基本的な事実関係については、上告審判決の時点と異なるものはなかったといわざるを得ない。むしろ、被告人が、当審公判で、虚偽の弁解を弄し、偽りとみざるを得ない反省の弁を口にしたことにより、死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情を見いだす術もなくなったというべきである。今にして思えば、上告審判決が、「弁護人らが言及する資料などを踏まえて検討しても、上記各犯罪事実は、各犯行の動機、犯意の生じた時期、態様なども含め、第1、2審判決の認定、説示するとおり揺るぎなく認めることができるのであって、指摘のような事実誤認などの違法は認められない」と説示したのは、被告人に対し、本件各犯行について虚偽の弁解を弄することなく、その罪の深刻さに真摯(しんし)に向き合い、反省を深めるとともに、真の意味での謝罪と贖罪(しょくざい)のためには何をすべきかを考えるようにということをも示唆したものと解されるところ、結局、上告審判決のいう「死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情」は認められなかった。

以上の次第であるから、被告人を無期懲役に処した第1審判決の量刑は、死刑を選択しなかった点において軽過ぎるといわざるを得ない。論旨は理由がある。

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