被害者も加害者も排除する社会のありようを知ってほしい

死刑制度を肯定する人たちは、よく「被害者の感情を考えれば、死刑も必要だ」と言います。確かに僕も一時は死刑を望みました。だけど怒りや混乱のなかで、死刑や死刑制度がどういうものなのかも考えたことも知識もなく、感情的になっていたのです。長谷川君と交流するうちに、彼から直接謝罪を受けることが何よりの癒しになることに気づいたから「死刑にするのは待ってほしい」と何度も法務省に申し入れたのですが聞き入られませんでした。

裁判所や法務省は死刑判決や死刑執行の際に「被害者感情を鑑みて」と言います。だけど「死刑は待ってほしい」と主張しても執行するなら、被害者感情など考慮していないということではないでしょうか。少なくとも僕はそう感じています。

死刑が執行されてもされなくても、僕の苦しんできたことは消えませんし、弟が生き返るわけでもありません。長谷川君がしたことへの怒りもなくなることはありません。「被害者感情」とは、そんな単純なものではないのです。

「長谷川君」の死刑が確定してまもなく、彼の息子が自殺した。20歳という若さだった。その数年前には姉も自殺している。いずれも遺書は残されていなかったが、父であり弟である「長谷川君」のことで思い悩んだ末のことと原田さんは受け止めている。

原田さん自身は'98年に脳出血で倒れ、しばらく車椅子の生活を送った。今も後遺症を抱えている。妻とは離婚し、住み慣れた町を離れてひとり暮らしをしている。「事件」がなければ病気や離婚はなかった、とは言い切れない。しかし多くの人の人生が暗転した遠因であることには間違いないのではないだろうか。「長谷川君」の家族もまた被害者だと原田さんは言う。

一番悪いのは、長谷川君や共犯者です。だけどそれだけじゃない。今の社会には「排除の構造」があり、いったん事件が起きると被害者も加害者も社会から排除されてしまう。そういう意味では加害者側の家族や親族も被害者だと思うのです。

被害者も排除されるというのは理解されにくいかもしれませんね。実際に、親族が殺された人が職を失うこともあります。「殺される理由があったんじゃないか」などと言われたりして居づらくなるのです。悲しんでいれば「いいかげんに気持ちを切り替えろ」と言われるし、笑っていれば「もう忘れたのか」と言われる。被害者も孤立させられるのです。

だけど死刑制度を支持する人は、「悪いことをしたんだから死刑でいい」「被害者の気持ちを考えれば死刑しかない」と言います。それで被害者の苦しみも解決すると思っている。僕が違うことを感じたり、死刑廃止の運動をすると、「被害者のくせして」「被害者なのに」と非難する人も多いです。被害者はひたすら加害者を憎み続け、死刑を支持し、執行されたら気持ちを切り替えなければいけないのでしょうか。

僕を非難する人に問いたい。「じゃあ、あなたは僕が困っている時に手を差し伸べてくれましたか」「被害者の気持ちがわかるなら、その人たちのためにできることを考え、奔走しているんですか」と。

今、いろいろなところで話をさせてもらいます。すると死刑制度を支持しながら、ほとんど知識のない人が少なくありません。最低限の知識と、被害者が置かれている状況や気持ちをある程度は知ったうえで議論してほしいと思います。

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