初代月亭 可朝(つきてい かちょう、1938年〈昭和13年〉3月10日 - 2018年〈平成30年〉4月9日)は、神奈川県横浜市出身(同県三浦郡葉山町生まれ)、兵庫県西宮市在住の落語家・漫談家。本名は鈴木 傑(すずき まさる)。通称「カチョヤン」。
幕末以来の「月亭」の亭号を名乗り、弟子に月亭八方など、孫弟子に八光や方正などを持ち、「月亭一門」を形成している。定紋は月紋、または桂米朝一門の用いる結び柏。出囃子は「ああそれなのに」または「芸者ワルツ」。
所属事務所は変遷をたどった。デビュー以降、最初の師匠の事務所であった吉本興業に長年所属し、米朝一門に移ったのちも、一門の多くのように米朝事務所に所属せず、ケーエープロダクション、スパンキープロダクションを経て、現在はフリー。
ブレイク直後の1971年、第9回参院選に全国区から無所属で出馬した。同選挙に出馬した談志の応援演説が予定されていた日に、気が変わって立候補届を出したという。公職選挙法の規定によって、当時レギュラーだった『新婚さんいらっしゃい!』など多数の番組を降板し、そのまま復帰することはなかった。「一夫多妻制の確立と、風呂屋の男湯と女湯の仕切を外すこと」を公約とするが、落選。当時の選挙戦で選挙カーを高速道路で走りながら演説していた(のちの参院選で落選した島田洋七にも同様の話がある)。
2001年には第19回参院選に自由連合公認で比例代表区から出馬したが、再度落選。自由連合では政策審議会審議委員を務めた。このほか、大阪市議選にも出馬した経験がある。
1979年に、Wヤングの中田治雄の自殺をきっかけに、結城哲也(チャンバラトリオ)、間寛平とともに野球賭博で11月15日に逮捕、略式起訴された。この賭博は、暴力団を胴元に吉本興業の社員が仲介していて、可朝はこのシーズン50回で1000万円を賭け、約300万円の損をしていた。中田治雄は1億円の借金を抱え自殺したが、可朝もそれまで中田同様に多額の負けを出し、ヤクザに催促され追い込まれていたが、1発勝負の賭けで3000万円勝って返したという。この事件により、可朝らは謹慎処分となった。
2008年8月12日、元交際相手の50代の女性へ繰り返し電話をかけたことなどがストーカー行為にあたるとして、ストーカー規制法違反の容疑で逮捕された。可朝といわゆる「W不倫」の状態で交際していた愛人女性が、また別の男性(女性職場の同僚)と関係を持っていたことに立腹した可朝は、2日間に10数回の電話をかけたことに加え、女性の職場に同僚との関係を暴露した手紙を送付。女性の通報により逮捕された。逮捕当初可朝は「ストーカー行為には当たらないのでは」と容疑を否認したものの、大阪簡易裁判所での公判では検察官に対し「公(職場)と私の区別をすべきだった」と応じた。罰金30万円の略式命令を受け納付。8月28日に釈放されてマスコミの囲み取材を受けた際、可朝は記者から求められて『嘆きのボイン』の節に乗せ「可朝は7年間不倫してきてその結果〜警察に御用やで〜」と替え歌を歌った。「不謹慎」「反省の色が無い」とマスコミからバッシングされた。なお、略式起訴後の報道での呼称は「月亭可朝落語家」であった。2009年1月9日、4代目桂福團治との二人会宣伝のための記者会見で可朝は、「(ここまで大きい)警察沙汰にするつもりはなかった」と被害女性に謝罪されたことを明かし、さらには「ストーカー見たさ、怖いもん見たさで、地方から余興(漫談等)の仕事がたくさん入った。北は北海道から南は沖縄まで行った。報道してくださった記者さんたちには感謝」と事件を完全にネタにした。また、のちに雑誌のインタビューで明かしたところによれば、事件後その女性と復縁し、交際をつづけた。